( 091128 )



あまりに穏やかな瞳をしていたから、私と彼とは世界の見え方が異なるのではないかとさえ思った。 何処か楽しげに、そして何処か物憂げに。何を語らずとも心の奥底まで沁み渡る存在を慈しむように見つめては、 時折強い光を反射して煌めくと彼は眩しそうに目を細める。その眼差しの、なんと無邪気で一途なことか。 海賊は皆、海に恋して船に乗るのだと言う。 だとしたら私は勝ち目のない普遍的な対象を相手に一生不毛な嫉妬を繰り返すのだろう。ああ、なんて嘆かわしい。 だからどうか甲板からその大きな背中を紺碧の海へといっそ突き落としてやりたいという衝動に駆られることを 誰か許してはくれまいか。




「好きなら飛び込めばいいのに」


そう言うと彼は決まって哀しそうな顔をした。 彼は万物をも受け入れる存在に唯一拒まれなければならない奇特な人間のひとりだった。 悪魔の実の能力と引き換えに海での自由を失い、泳ぐことはおろかもがくこともできなくなるという。 話に聞いて理屈は理解できていても、私にはその奇妙な感覚が未だよく分からなかった。 どんな心地なのだろう、海に拒まれるというのは。 海に生まれ、海で生きる私たちにとってそれは決して途切れることも離れることもなく。 何よりも身近な存在なだけに、受け入れて貰えないのはきっと辛いことだ。


「そうすっと沈んじまうからなァ、」
「...ほんとに?」
「なんなら試してみるか?」
「そんなことできないよ」


からかわれているだけだ、彼は確かに悪戯っ子のような笑みを浮かべていたのだから。 でももしも海に飛び込んだとして、その身体まるごとを拒否されたのならば彼の海への執心に何か変化は生じるだろうか。 知りたかった、それでもまだあんなに綺麗な瞳をして報われない思いを馳せることができるのか否か。 彼は船の手摺に背を凭れさせて私を見ていた、筈だった、 ゆっくりと時の流れが緩やかになったのかと思わせるほどの速度で彼の身体が大きく後方に傾いていく。 右手で器用にテンガロンハットを押さえつけながら 垂直に、真っ直ぐに落ちる、その唇は確かに曲線を描いていて。


「ちょっと冗談、!」


私が手摺から身を乗り出したのと同時に下の方でざぶん!と水飛沫の上がる派手な音がして、 当然の如く彼の姿は既に海に飲み込まれていた。 水面は衝撃に揺蕩い、やがて何事も無かったかのように穏やかな動きを取り戻す。 其処に本当に人が落ちたのかと疑いたくなる程に。 悪魔の実の能力者は泳げない―その諸説を信じるのならば彼は自力で海から上がることはできない筈だ。 どうする、つもり?そんなの答えはひとつしかないだろう。


そして再び、海が鳴る。




「げほ、げほ!っ、はァ........な?言ったろ、沈んじまうって」


ごぽりと気泡を吐き出して沈んでいくのに似つかわしくない逞しい身体、その鍛え抜かれた筋肉ならば一掻きでしょうに、 さっさと水面まで上がってくればいいじゃない。誰かの突拍子も無い行動のお陰で 全身を海に浸からせる羽目になった私は、情けなくも身体全部を私に預けて漸く浮かぶことのできる 彼を非難の色を交えて睨めつけた。息が荒い。水を吸った橙のテンガロンハットからぽたりぽたりと雫が落ちる。 その帽子ごと濡れた髪を掻き上げて、それでも彼はにやりと笑った。


「......死にたいの」
「まさか。俺ァこんなところじゃ死なねーよ」
「私が飛び込まなかったら死んでた、」
「けど生きてる。...だろ?」


お前が、俺を生かしたんだ。突然真摯な目を向けてそう言うのだから私はどうにも押し黙ることしかできない。 何か言いたいのに、言わなくちゃいけないのに、彼の視線に言葉を絡め取られたまま こうしていつも流されてしまうのだ。(最低、)すぐ傍にある彼の額がこつんと私の濡れた額に触れる、 触れた所から少しずつ熱を帯びる、「ありがとな、」祈るような囁きは本当に生かされることを望んでいたの。


「海で死ぬのが本望なんでしょう」


死に直面するほんの一瞬先でさえ彼の求めるものは私の差し伸べた手ではなくて。ああ、やっぱり勝ち目ないな、 ならせめてその願いを叶えるのは私の役目であればいい。 何度でも助けに飛び込んであげる、だからそのままふたり海に心中でもしましょうか。



背徳のに沈む
(ただひたすらに、海での自由を切望している)