真夜中の武蔵野第一図書館にコツコツとヒールが床を蹴る音が響く。は左手をぎゅっと握り締め右手で
億劫そうに図書隊員の象徴である制服のネクタイを緩めた。やっと、終わる―このまま闇に紛れて館員用の
非常階段から姿を眩ませてしまえばいいだけだ。誰にも気づかれることなく、誰かが目を醒ました頃にはすべてが終わる。
実に簡単な任務だった。情報部候補生の部下を持ち、業務部であらゆる情報の一切を統括していたに
先方が目をつけたのは上出来だ。馬鹿だと思っていたがそうではないらしい―良化特務機関という組織の頭は。
毎日のように利用者にレファレンスし続けてきたカウンターの前を通り過ぎると、
いままで一人分だった足音に重なってもうひとつ足音が閑静な館内に響き渡った。
「動くな。それを置いてゆっくりと此方を振り向け―二正」 もし百億分の一の確率でこの任務が失敗するようなことがあるとしたら。それは、きっとこの声に呼び止められた時だろうと 思った。はにっこりと微笑みを浮かべて「堂上、」と自分に銃を向ける同期の名前を口にした。 かつて背中を預けた仲間に背中を取られる日が来ようとは。なかなか不思議な気分だ。言われた通り振り向いて、 真正面から同期と相対する。堂上の眉間により深い皺が刻み込まれた。 「見逃して貰えないかなあ、」 「残念だが。できない相談だな」 「...それは残念だよ、」 が忍ばせていた銃を取り出したのと堂上が銃を構え直したのはほぼ同時だった。一方は微笑みを湛えたまま、一方は 険しい表情を浮かべたまま。互いの銃口が互いを捉える。 長い長い沈黙のあと、口を開いたのは堂上だった。「...どうしてなんだ、」と。何故、どうして、そんな問いかけが 無意味であることを知っていた。最早問答無用・というやつだ。自分にだって、この裏切りに果たして明確な意志と理由が 働いているかどうかなんて分からないのだから。ただひとつ事実としてはっきりしているのは―自分はもう、此方側の 人間ではいられなくなった。(まあ彼方側でも歓迎されるとは到底思えないが) 「もう一度言う。左手の情報を置いて此方に戻って来い、...」 ああ、君があたしの名前を呼ぶのはこれが初めてだね。ほんとはずっと呼んで欲しかったけど言えなかったんだよ。 変だよね、こんなに長い間ずっと一緒に居た君に遠慮することがあっただなんて。 だから、嬉しかった。有難う―最後にそう呼んでくれて。 答えの代わりにゆっくりと銃のセーフティーを外す。君はどんな顔をしただろうか。勿体無いから見ておけばよかったな。 「あたしの方が射程距離は上だよ。この距離じゃ、君は当てられない」 「...数年前の話だ。現役の特殊部隊員を嘗めないで貰おうか」 「そうね。じゃあ、...試してみる?」 翌日。二等図書正は昨晩帰宅途中、館内カウンター前にて不法侵入した良化特務機関に襲撃され殉職したと現場に駆けつけた堂上篤 二等図書正が証言。一階級特進し一等図書正としてその一生に幕を降ろした。発見された彼女の左胸に、カミツレの花は 咲いていなかったという。 title by : alkalism |