( 111021 )



本に触れる時の表情がとても好きだった。


「こんな時間まで残業か」


とっくに消灯を過ぎた業務部のカウンターから明かりが漏れているのを見て、館内巡回中の堂上は足を止めた。 自然と其処に寄りついてしまうのはもう癖みたいなもので、ましてや業務終了後の図書館に 籠城するような物好きを堂上は一人しか知らない。決して安全な場所ではないのだからこうして戦闘職種が巡回していると言うのに。


「なんだ、堂上か。驚かさないでくれる」
「どっちの科白だ。いま何時だと思ってる」


どうやら言われて初めて時計を確認したらしいは「道理で外が暗いと思った」と間の抜けた感想を漏らした。 普段は自分の業務を放り出して姿を眩ますのが得意なくせに、一度作業に集中すると周りが見えなくなるらしい。 彼女らしい、と言ってしまえばそれまでなのだが。はあ、と諦めたように堂上がひとつ溜息を吐く。


「で、何をやればいいんだ」


差し出された手をは目を丸くして見つめる。だから、と繋ぐ言葉。


「どうせ作業終わるまで帰らないつもりだろう。なら俺も手伝った方が早い」



欠損図書の修理はそれなりの知識と技術が必要な作業だった。 図書大学校卒の堂上やは当たり前のように叩き込まれた知識だが、図書館の現場にはあまり普及していないのが現状だった。 下手を打てば無知な図書館員や善意の利用者がセロハンテープや布テープで補修、なんてことにもなりかねない。 大規模抗争や検閲から本を守るのが特殊部隊や防衛部の役目なら、日々破損していく本を守るのは業務部の役目だと彼女は言う。


「私にできることなんて、それくらいしかないの」


彼女が本に触れる時の表情が好きだった。なんて慈しむような手で図書に触れるのだろう、と思う。 これほど大事に慈しまれるべき図書を、どうして良化隊の人間は 無下に扱うことができるのだろう、とも。「...堂上?」覗き込まれるように声を掛けられて、随分と長い間 見惚れていたことに気付く。時刻は23時を過ぎようかとしている頃だった。


「あ、ああ......悪い」
「こっちの分は終わったよ。あとは君が持ってるその本だけ」


手に取ったその図書には見覚えがあった。酷く表紙が劣化してしまっているが、作家であるの父親の著書。 派手さはなくとも一部の読書家から堅実な人気を博しており、堂上もその内の一人だった。 何せこの作家の著書には外れがない(と堂上は思っている)。残念ながら「そんなに面白いかなあ」と 実の娘は一蹴してしまうのだが。


「『柚子蜜』。先生の処女作だったな」
「その本ね。ヒロインは私の母さんで、」


ラストに生まれてくる娘が、私。

敬愛する作家の娘の激白に、思わず堂上は瞠目する。『柚子蜜』は堂上が生まれた頃か、その少し後に 初版が発行された著書だったが、まさかそんな裏話が実在するとは思いも寄らなかった。勿論読んだことはある。 学生時代に知り合った二人が結婚して子供を授かるまでのよくある恋愛もの。 現在は専らお堅い謀略物や軍記物を得意としている作家としては、珍しい傾向の著書だ。


「...つまりそれを鑑みて読むと家の権力構造が見えるわけか」
「父さんが母さんに頭が上がらなかったのは、学生時代からずっとだよ」


至る所に破損が見られるその本を、丁寧に丹念に補修していく。 そんな堂上の手付きを黙って見つめるの表情は分からない。 だけどきっと、あの慈しむような視線を注いでいるのだと思う。


「...これ、俺が借りて行ってもいいか」
「読んだことあるんじゃないの?」
「ある。けど、もう一度読みたくなった」


無人のカウンターで館員用の貸出手続きを済ませて、今し方修理したばかりのその本を手に取る。 初めて読んだのは確か図書大学校に入る前だったから内容の記憶は曖昧だが、何故だか 今の自分に重ねられるような気がした。ちょいちょい、とに袖を引かれて 堂上は我に返る。「おなかすいた。パスタがいい。」―それは一体どういう意味だ。業務時間外のお咎め無しどころか 製本作業を手伝ってやった人間に対して。飯を奢れ、と。......ああ、そうか。


「...俺もお前に頭が上がらないんだ、」


子蜜
(すべてを、姫の仰せのままに)