( 100312 )



は特異な少女だった、


と言えば少し語弊が生じてしまう。正確には彼女自身が特異なのではなく彼女の持つ性質が、特異なのである。 個人については平凡そのもの、昼間は都内の私立大学に通い学校が終わるとコンビニでレジ打ちのバイトに 明け暮れる日々。現在は父親と二人暮らし。実はこの父親がまた特異な存在だったりするのだが―この件は 今回に限って関係が無いので端折ることにする。 今日とては何事も無く深夜前にはバイトが終わり、そのまま家への帰路を辿っていく、筈だった。




「っ、誰か......!」


はあ、はあ、と短い呼吸を繰り返しながらは走る。池袋の複雑に入り組んだ路地裏を。 何故か?人間が後方を気にしながら走るとき、初心者のマラソン選手然り、 それは誰かに追われていると考えるのが妥当である。例に漏れずも複数の足音に追われていた。 踵のピンヒールが悲鳴を上げ、時折聞こえる破壊音に身体が竦み、 狭い路地裏からも覗く月の下、それでもは必死に走っていた。そしてもう一度後ろを振り返る。 多くの物語における路地裏に迷い込んだ人間の結末は行き止まりにぶち当たるか―挟み撃ちに遭うかの何方か、だ。





「追いかけっこはおーしまい、だなァ?」


の場合は、後者だったらしい。

にたりと下卑た笑みを浮かべた、鉄パイプが良く似合いそうな集団に前も後ろも囲まれてしまえばいよいよ成す術が無い。 見たところ特定の「色」は持っていないようだったが、それでも危険であることは事実、 ましてやこれが噂に聞くあの「ダラーズ」だったら―そう考えただけで目眩がする。 勿論は特別な護身術の有段者でもないごく普通の女子大生なわけで、 こんなことなら空手でも合気道でもやっておけば良かったと危機的状況に陥って初めて後悔したのだが、 にしてもこれだけの人数相手に太刀打ちする術など。

ねっとりとした恐怖がに絡みつく。全身から拒絶反応が出ているのに動けない、足が その場に根を生やしたように、動かない。




「な?大人しく俺らに捕まっとけって」
「いや、っ...離して、下さい!」
「おっと!逃がしゃしねェよ、」
「おい、お前そっちの腕押さえろ」



「あーやだやだ。一人の女の子相手に君たち一体何人掛かりなわけ?全く醜くって見るに耐えない」




よ、っと。


静寂と共に人が降ってきた。
それは月夜に現れた死神か、はたまた漆黒の救世主か。








「......なっ、だ、誰だてめえ、っ!何処から出て来やがった!?」
「本来君たちが此処で何をしようと幼気な女の子に寄って集って醜い行為を働こうと俺には何ら関係のないことなんだけど、」


「此方も仕事が絡んでるからさあ。これって仕方の無いことだよね?...ってなわけで、その子に触らないでくれると助かるよ」




...或いは戯笑の仮面を携えた道化師か。


は突如一転した目の前の光景を半ば夢見心地で眺めていた。唯一彼女の意識をこの場に繋ぎ止めているものはただ純粋なる恐怖。 呻くような低い悲鳴、突然腕から血を滴らせて倒れる男、なにより奇々怪々な光景の中心に立つ、その身に黒を纏う青年の存在が。 誰かが恐怖に引き攣らせた声で叫んだ「っ、こいつ、新宿の折原臨也だ...!」と。 その言葉は細波のように周りに浸透して行き、誰もがその言葉の意味を理解し色を失う中で当の「折原臨也」だけが にっこりと微笑んでいた。なんて胡散臭い笑い方。「正解、ご名答」―








「あ、の...助けて下さって、有難う御座いました」


新宿の「折原臨也」という人物について、は世間に蔓延している噂程度のことしか知らない。 池袋人の常識として使われている単語―「折原臨也」「平和島静雄」「首なしライダー」―等々というのは、 のように普通の生活を送っている者、裏事情に首を突っ込まずに生きている者の立場からしてみれば ほとんどが都市伝説扱いなのだ。

その都市伝説の代表格「折原臨也」なる人物が、いまの目の前にいる。 彼は果たして噂通りに"やばい"存在なのか。 そもそも自分は助かったのか、それとも更なる窮地に追い込まれただけなのか。 分からない、何故ならその答えを持っているのはではなくこの「折原臨也」だからだ。




「ははっ、いいねそれ。なんだか正義の味方になった気分だよ。 でも残念、俺は仕事で来ただけだからちゃんにとっての正義の味方じゃない。 もっと言えば君を助けたのも仕事、つまり其処に俺の意思は存在しないわけ。分かる?」




飲み込めたのは、「折原臨也」が意外と饒舌だということだけだった。

全然分かってないって顔だねえ、との目の前を「折原臨也」は舞うように歩き回る。どうして何処か楽しげに。 全然分かっていない?当たり前だ、何故ならは至って平凡な人間なのだから。 突然目の前に現れた非日常的な存在の言うことをそのまままるっと理解できるほど器用な人間ではない。 そもそも何故自分の名前を知っているのかとか一体誰に頼まれた仕事なんだとか。 そういう基本的な内容から始めて欲しいものである。けれどもうひとつだけ理解できたことは、


「...でも。助けて下さったのは、事実ですから」


意外にも今度は「折原臨也」が目を丸くする番だった。そしてふ、と堰を切ったかのように闇夜に溢れ出る高らかな笑い声。





「そっくりだよ。そういうところが特に、ね」


...だから。誰と。

その疑念を頭に思い浮かべる前に目の前に現れた「折原臨也」の端正で妖艶な顔にの思考能力は一瞬で硬直した。 目の前、なんて抽象的で曖昧な距離感ではない。まさに言葉の通り目の、前。 日常の一体何処をどう引っ繰り返せば現状のような超展開を予想することができただろうか。 ちょっと待って、いままでの会話の中にそういうことを示唆する内容が、あった? そうこうしているうちに「折原臨也」の左手がの視界を奪う。生々しい吐息だけが 近くに感ぜられて気が狂いそうになる。吸血鬼に咬まれたら吸血鬼になるように、 都市伝説に唇を奪われたら都市伝説になるんだ、っけ?




意識の暗転。
平手が空を切る音が、1秒後。







「...ああ、でも。彼女は君みたいにすぐ手は出さないかな?」


暴力反対、と折原臨也はひらりと難なく身をかわす。虚しく空を切ったのは勿論の、左手。





には手を出すな、って言った筈よ。...折原臨也、」


は特異な少女だった。正確には彼女自身が特異なのではなく彼女の持つ、性質が。 概してその性質を有する者は人間社会においてごく稀な存在であることは確かだった。 新宿の情報屋を謳う折原臨也でさえもその性質、延いてはその能力を持つ人間を見るのは 初めてのことだったのだから。


は生来より「人を狂わせる」性質を持っていた。




「やだなあ、冗談だよ。俺がとの約束を破るわけないじゃない」
「さあ、どうだか。...とにかく、あの子を混乱させるような真似はやめて」


が「人を狂わせる」性質を有していることと路地裏で会話をしている人間は2人だけだということは 全く別の問題だ。正確には多少関連性があることは否めないのだが。 先程集団に追われていたところを「折原臨也」に助けられたのはであり、 現在折原臨也と会話をしているのも勿論である。 存在する人間は2人だけ。特筆すべきは、其処に人格が3つ存在したということ。




ちゃんも厄介な境遇だよねえ。変な能力を持って産まれたばっかりに? 父親には虐待され親友は飛び降り自殺。謹厳実直な恋人は強盗容疑で逮捕、 町を歩けば血気盛んなギャング集団に追い回される。 君みたいな交代人格が存在するのも納得するよ。そして彼女は何も知らない。 君が俺に仕事を頼んだこともそれに支払うべき代償のことも自分の持つ 数奇な運命のこともすべて!...傑作だよ、君という存在がさ。ねえ、?」

「随分ペラペラと勝手なこと言ってくれるのね、」
「賞賛してるのさ。こんなに滑稽で愉快で悲惨な人間はそういない」




出来ることならこの男の手だけは借りたくなかったと、はいまでも苦虫を噛み潰したような思いをする。 しかし折原臨也以外に適任者がいないのもまた事実。の能力に支配されることなく、かつ に仇なす者たちから確実に彼女を護ることのできる存在。


「仕事は引き続きお願い。を護って、それだけでいいの」
「勿論。その代わり君にはちゃんと代価を支払って貰わないとね」
「分かってる。......今日は、有難う」


コツコツ、とのピンヒールが遠ざかる音。複雑な路地裏の闇に消えていく今にも崩折れてしまいそうな後姿を見遣りながら、 折原臨也は自然と口端が吊り上がるのを堪えようともしなかった。 その嬉々とした表情はまるで興味深い玩具を見つけた幼児のようで、傷ついた獲物を見つけた狩猟家のようで。 何れにせよ、あれだけ面白い生態の人間を当分手離してやるつもりはなかった。 たとえ向こう側から願い下げられたところで折原臨也の興味が底を尽きるまでは。 飽きたら飽きた、その時考えれば良いだけのこと。




「やっぱり似てるよねえ。ちゃんと...君だよ、



星を数えわるまで
(遊んであげる、だから精々俺に縋ればいいさ)