( 081116 )



遠ざけて欲しかった。自分を、あのひとを、世界の干渉から、...すべて。 壊れそうなぎりぎりのところで成り立っている不安定で脆い幸せだったから、誰にも触れて欲しくなかったし、触れさせない。 あのひとが自分を必要としている以上に自分にはあのひとの存在が必要だった。 依存、なんて生易しい単語では括れないほどこの強烈な慕情はという人間そのものを束縛していた。 苦痛は無い、不自由は無い、むしろこれ以上に幸せなことは無いだろうと思っているくらい。何故ならそれが 自分にとってなにより大切なものだから。(そう、たとえばこの命などよりも、)一度失ったと思っていた。 だからもう二度と手離すことは、しない。


「おはよう、ニール」


世界で一番愛しているひとの名前を笑顔と共に呼ぶ。「ああ。おはよう、」そうして彼も笑顔を見せてくれる、 幸せだと言えた。「待ってて、すぐ朝食を作るから」唇から零れ落ちそうになる欠伸を必死に噛み殺して キッチンへ足を運ぶ。此処最近、あまりよく眠れて居ないことを彼に告げていない。少しでもリビングで物音がすると 過敏に反応して目が醒めてしまうようになってしまった。現にいまも、彼が起床した音が聞こえて慌てて後を追ってきたのだ。 気が付かないうちに彼が何処かへ行ってしまうのではないかと、確かに最初の一年くらいはそんなことを考えていた。 何処へ行くにしても彼の後ろをついて歩いていた。つい最近まで忘れていた感覚。それらが段々と戻りつつある。 すべては、「彼ら」の存在。出来るだけ彼から遠ざけておきたかった、お願いだから自分たちのことは放って置いて欲しかった。


「...食事の時にテレビは切るって約束でしょ」


両手に二人分の朝食を抱えて、がリモコンの電源ボタンを押す。ニールの視線の先にあった目まぐるしく映像の変わる ニュース番組が一瞬にして掻き消えた。「そうだったな。悪い悪い、」彼は取り繕うように笑みを浮かべるが 何処かぎこちない節があるように見えたのは自分が過敏すぎるせいだと思いたかった。...いつからだろう、「彼ら」の話を しなくなったのは。最初の頃はよくふたりで思い出を話し合っていたのに。分かっている、自分は一度だけ接触を図られた。 「彼ら」は自分にもう一度、世界を変えないかと・過去を払拭しないかと話を持ちかけた。勿論ニールの存在は知られていない。 冗談じゃ、なかった。4年前にあれだけ大掛かりな犠牲を払ったところでなにも変えられていない。どころか、連邦政府が 樹立したお陰で世界の情勢は最悪なまでに陥ってしまった。そのうえ 大事なものを失いかけたのに、なんとか取り留めた幸福なのに、誰がそれを投げ出すものか。それからすぐに引っ越した。 「彼ら」―ソレスタルビーイングからの接触はそれ以降、ない。ニールにも気づかれていないと信じたかった。 だから専ら世間を賑わせている「彼ら」のことが報道される度に、なにかと理由をつけて彼の意識を逸らすようにしていた。 いまやマスコミだけでなく至るところでその情報が溢れかえっているせいか、すべてを防ぎきることはできていない、いや そもそもそんなことは不可能なのだが。


「今日は、仕事...休もうかな」
「?なんでだ、体調でも悪いのか」
「ううん。ニールの傍に、居たくなった」
「こらこら。ずる休みは駄目だろ」


だって、と言い淀んでもだーめだ、の一点張りで彼はどうしても欠勤を許してくれなかった。「...けち」「けち、って...おまえな、」 「けちはけち、なの!」尚も言い募ろうとするニールを遮るようには立ち上がり、渋々といった様子で仕事用の黒スーツに 袖を通す。本当は毎日だって行きたくない。ずっとずっとニールの傍に居たい。だけどそれじゃ彼が負い目を感じてしまうから、 なるべく彼の負担にならないように振舞わなくては。「早く帰ってくるね」「待ってるさ。気をつけてな、」彼も立ち上がって 上から額に口付けを落としてくれる。余計に離れ難い。きっと長い間この熱の余韻が残ってくることだろう。幸せだった、本当に。 別れはいつだって突然に訪れる。なんとなくそんな予感はしていた。それはもしかしたら今日かも知れない、明日かも知れない、 一週間、一ヵ月後かも知れない。その時、自分は笑って彼を送り出すことができるだろうか。 それともそんな余地さえ与えず、彼は黙って居なくなってしまうのだろうか。


「ニール。最近右目の調子は、どう?」
「いや。おまえも知ってるだろ?...俺の右目は、もう見えない」


それを聞いて安堵を覚えてしまう自分が恐ろしい。彼の右目が見えていないままならば、「彼ら」もニールを連れて行くことを 逡巡してくれるのではないかと僅かな期待を抱かずにはいられないからだ。だけどもし彼から「彼ら」に接触を図ってしまったら? 連れて行ってくれ、と自ら「彼ら」に懇願するようなことがあったら?実はその可能性のほうが遥かに高いという事実に、は 気づいていなかった。いや、気づいていた。けれど、知らない振りをしていたかった。



暗黙の了解、誰よりも
( さ よ な ら を 言 う 準 備 は で き て い る )

title by : 星が水没