( 100429 )



男の脳裏には、常にある少女の存在がこびりついて離れなかった。


取り立ての仕事をしている時も、家へ帰って風呂に入る時も、あまつさえ怒りに任せて標識を振り回している時も。 いつも何処かに少女の影を追っていて、気がつけば少女の存在が思考の大半を占めていて、 男はそれを振り払うように首をぶんぶん振る。一度、絡まれているのを助けただけだ。 そういう現場に遭遇することは度々あったが、大抵は男が現れると加害者も被害者も一目散になって逃げ出してしまう。 それまでのケースと異なっていたのは助けた少女が自分に対して恐怖を示さなかったこと、それと 何故だか異様に懐かれてしまったこと。それだけだ、そう言い聞かせて男は自分の前方を歩く ドレッドヘアが特徴的な上司に大人しく随行した。




「......あ、静雄さん!」


遂に幻聴と幻覚を来たしてしまった自分は本格的にやばいのかもしれない、と思った。 端へ端へと追いやろうが四六時中頭の中をふわふわと漂っていた少女の姿が現実となって目の前に存在するなど。 落ち着け俺、心頭滅却すればまた火も涼し。心頭滅却心頭滅却心頭滅...と男がぶつぶつと唱えている間にも、小走りで 駆け寄ってきた少女は「トムさんもこんばんは、」と自分の上司に対して丁寧に頭を下げた。


「よう、ちゃん。こんな時間にどうしたんだ?」
「予備校の帰りなんです、お二人は...お仕事中、ですか?」


会話をしている、どうやら男以外にも少女の姿が見えているらしい。 来良学園の制服を身に纏ったその少女、の姿が。そして漸く男は現実を認識し始める。 目の前に幻覚ではない少女が存在すること、現在時刻が23時を回ったところであること、そして此処が 池袋西口公園前であること。「あー」と男は少女と上司の会話を遮るように低く唸った。 それに濁音を乗せれば更に適切な表現ではあるが。


「...お前、なにしてんだ」
「えと、...帰宅途中、ですけど」
「お前幾つだ言ってみろ」
「今年18歳になる予定ですが、」


男の言わんとする意図がよく飲み込めない少女は頭の上にちょいん、と疑問符を浮かべて応答する。 と、突然男が少女の白く細い手首を掴み(勿論普通に掴んだら容易く折れてしまうので 力加減はしつつ、だが)「トムさん、」と上司の名前を呼んだ。


「おう、お疲れさん」
「......うす、」
「あ、ちょっと...え、なんですか、っ、静雄さん!?」


またなーちゃん、という上司の言葉を背中で聞きながら、男は少女の手首を掴み大股でずんずんと歩いていく。 池袋の雑踏の中へ。当然小走りにならざるを得ない少女は訳が分からない、という顔をしつつ「静雄さ...!」と 必死に男の名前を呼ぶ。どうしたというのだろう、まさか自分は気付かぬうちにこの人を怒らせるような ことをしてしまった?やがて男の足がぴたりと止まる。へぶ、と情けない声を発して 男の背中に衝突した少女が「ごめんなさ、」と謝罪の言葉を口にをするより先に、


「家、どっちだ」
「...あの。色々突発的すぎてよく分かりません」
「あ?送るっつってんだよ、家どこだ」


きょとん、と未だ理解を示さない少女に段々と男の苛立ちが募ってくる。勿論暴力的な手段に訴えたくなるような 苛立ちではなくて、こう、危機感や貞操観念のようなものがこの少女には欠落しているような気がしてならないのだ。 まさか巷に横行しているカラーギャングやら切り裂き魔やらの存在を知らないとでもいうのだろうか、つまり。 「女子高校生が一人で23時以降を迂路つくな」―男の主張はこれ一点のみである。








「そこの角を右、です」


漸く男の意図を読み取った少女は「すみません、」と申し訳なさそうに謝罪した。 咄嗟にとはいえ少女の細い手首を力任せに(いやだから加減はしているのだが、)掴んでしまった男の方も そこはかとない背徳感というかなんというか、そういったものを感じながら今度は歩調を少女に合わせて歩く。 居心地の悪い沈黙。男はサングラスをかけ直しながら、状況打破の糸口を探した。


「あーその、なんだ。いつもこの時間帯なのか?」
「え?あ、そうです、大体は...でも別に何もないし、大丈夫です」
「人通りゼロじゃねえか。......決めた、これから毎日送る」
「へっ!?だだだ駄目ですよ!」
「いいや送る、送るっつったら送る、拒否されても後ろから送る」
「...それじゃあ静雄さんが変質者扱いされます」


少女は男の厚意が迷惑なわけではなかった。いや寧ろ嬉しい、嬉しすぎるくらいだ。 が、自分の為にわざわざ池袋駅から徒歩20分もある道を往復させてしまうわけにはいかない。 きっといまだって仕事上がりで疲れているに違いないのだから、早く家に帰って 休んで欲しい。それが少女の本音だった。

だが、男はあまりに強情だった。少女の主張には一切耳を傾けず、何を言っても「送る」の一点張り。 どうしたものかと思案していると、少女のすぐ近くで自分のものではない腹の虫が微かに鳴いた。 ちらりと横を見上げれば仄かに耳を赤らめた男が忙しなくサングラスを弄っている。


「夕飯、まだなんですか?」
「......ああ、」
「いつも?」
「大体仕事が終わってから食ってる」
「うちで食べて行きませんか」
「.........は、」


あァ!?と閑静な住宅街に男の声が響き渡った。十二分に近隣迷惑な声量で。 「送って貰う代わりに、うちでご飯食べて行って下さい」少女の言う意味が解からず、 というか言葉の解釈の仕方が解からず、しどろもどろになる男を尻目に少女は名案を思いついたとばかりに破顔した。 そんな顔をしないで欲しいと思う。そんな、まるで自分が隣に居ることを喜ぶような、自分の隣に 居ることを喜ぶような。誤解を招く、顔は。


「駄目だ」
「なら静雄さんに送って頂くわけにはいきません」
「...駄目だ、」
「そんなの駄目ですよ」


駄目だ、駄目です、駄目、駄目、と二人は不毛な言い争いを繰り返す。 親元を離れ一人暮らしを始めて3年目を迎えた少女は当然のことながら誰かと夕飯を共にすることが滅多に無い。 親しい友人、気の合う友人と外食に行くことも無くは無かったが、高3になってからは 予備校と家を往復する毎日でそんな余裕は全くと言っていいほどなかった。 ひとりで食べる飯が如何に不味いかを男は良く知っている。というか、日々身を持って体験している。 既に結果は見えていた。




「頑張って美味しいもの作りますから」
「...普通でいい、普通で」


少女は嬉しそうに笑う。そうだ、明日は本屋に立ち寄って料理の本を買おう。 スーパーでいつもより一人分多い食材を買って、部屋を掃除して、 お箸も一膳買っておいた方が良いだろうか。あとは茶碗と、マグカップと。 緩みきった頬を隠そうともしない少女の様子に男は戸惑う。 どんな反応をすれば良いのか解らない、ただ酷く気分が高揚していた。 のちに少女の家まで辿り着いた時点で、 一人暮らしの女子高生の家に邪魔するという罪悪感がふつふつと 込み上げてくることになるのだが、それでも。


「あ、その代わりボディガード宜しくお願いしますね」
「......おう、」


自分が誰かに受け入れられる、そんな幸せな錯覚を起こしてしまいかねないほどに。