( 100817 )



この光景を、知っている。


平和島静雄は深夜の南池袋公園という舞台に一人ぽつんと立たされていた。 自分を取り囲むようにして集く人々の群れ、その手ひとつひとつに 握られた鋭い刃が自分に狙いを定めている―この光景を、知っていた。 これを既視感というのだろうか。それにしてはあまりに鮮明に事の顛末を思い出すことができる。 確か隣にセルティが居た筈だと、振り返って闇夜に溶け出しそうな友人の姿を探すが何故か 其処に彼女の姿はない。


「平和島静雄」
「静雄、」
「平和島平和島」
「静雄愛す静雄平和島静雄、」
「静雄静雄静雄静雄」
「愛してる、静雄」


何百人もの人間に自分の名前を大合唱されるというのはあまり心地の良いものではない。 ましてや老若男女、愛してるだなんだと仰々しく愛を告げられたところで 静雄は僅かに眉間に皺を寄せるだけだ。そんなもの誰が欲したと。 静雄はコキキと首を鳴らしながら「平和島静雄」という人間の存在を欲する刃たちとの間合いを測る。 こんな奇怪な状況にまさか二度も陥ることになろうとは思わなかった。 もしかしたら何方かが夢なのかも知れない、だとしたらこれは夢か現実か?




「静雄さん、」


ぱたぱたと駆け寄ってくるのは一対の足音。 どんなに遠くに居たとしてもこの耳が拾ってしまう声がして、静雄静雄と大合唱の最中だというのに その声だけは一際はっきりと静雄まで届いていた。だがどうして拭えない違和感。 頭の中で警鐘が鳴り響く―離れろ、その女は危険だ。


「......、か?」
「静雄さん、静雄さん」


いつの間にかあれだけ群がっていた集団が忽然と一人残らず姿を消していた。 知らない、こんな光景は、こんな展開は、記憶の中に覚えがない。頭では絶え間なく警鐘が喚いている。 だが、目の前にいるのは確かに自分の良く知る少女であった。 何方が夢で何方が現実であったとしても自分を見つけると嬉しそうに笑ってくれる、なのに。




「愛してます、静雄さん」


生温かさがじわりと腹部を蝕む感覚に、遅れてやってくる鈍い衝撃。どす、という鈍重な音を耳で聞いた。







「......っ、」


何が起こったのかを理解したのは目が醒めた後だった。


がばりと勢い良く上半身を起こした静雄は此処が自室のベッドの上であることを確認し、 眠る前と今とで何も変わっていないことに酷く安堵した。嫌な汗が頬を伝う、 それは久しく体験し得なかった感触だった。

かの折原臨也が幾度となく平和島静雄の刺傷を試みたが、その鋭利な刃渡りでさえ5mmと 傷をつけることすら叶わないというのに。深々と刺し込まれた刃もそうだった、 だが自分にそれを突き立てた少女―の瞳が妖しいほどに紅く輝いていたことが 何より静雄の背筋を寒くする。ありえない、ありえるはずのない光景。 後にリッパーナイトと呼ばれる奇異な夜が明けた翌朝、平和島静雄の最悪な目醒めだった。


「......くそ」





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最悪の朝を迎えた日に限って、悪いことが続くのはどうしてなんだ。


「オラァァァッ!!!」


どっかんばっこん。くの字にへし折られた道路標識が宙を飛ぶ。人が舞う。 はあ、と静雄の上司が額に手を当てて盛大な溜め息を吐いたがそんなものもお構いなしに 投げる、投げる、投げる。いっそ清々しいほどの光景だが、当の本人の苛々は 治まるどころか寧ろぐんぐん高まっていた。 朝から変な夢を見た、気分は最悪だ、だけど仕事に行かなければならない、よし今日は大人しくしていよう。 今朝家を出るときに静雄は心に誓った筈だった、しかし何故今日に限ってこうも絡まれる。





「...げ、シズちゃん」


極めつけは、これか。なにやら胡散臭い路地裏からひょい、と黒いコートを身に纏った優男―折原臨也が 顔を出した先は、残念ながらたったいま平和島静雄が作り出した 戦場だった。「いーざーやァ、」肩で荒い息をする静雄が低く唸る。めきめきと道路標識が 握力によってのみ潰れていく、音。


「てめえ...この街でなにしてやがるッ」
「やだなあ、人に会いに来ただけだよ。ここでシズちゃんに会うことまでは想定してなかったけど」


一直線に飛んでくる自販機やガードレールの類をひょいひょいと軽く受け流しつつ不敵に笑う臨也に、 静雄の怒りは限界値に達していた。だからその言葉の意味がよく分からなかったのかも 知れない。「ちゃん...だっけ?可愛い子だね、とっても」こいつはいま、なんて、言った?





「......静雄さん?」


その声に気を取られた、一瞬の隙だった。何故か臨也の出てきた路地裏と同じところからが現れる、思わず 其方を振り向くと、今の今まで静雄の目の前で不穏な笑みを浮かべていた折原臨也は 忽然と姿を消していた。(...くそ、逃がした)先程の発言を問い質す前に臨也を取り逃がしてしまったことに 憤りを感じつつ、あの夢と同じようにぱたぱたと駆け寄ってくるに対して、反射的に一歩身を引いてしまったのはどうしてか。


「...どうしたんですか?」
「いや、...なんでもねェ」


勿論嘘だ。怒りで理性の糸がふつりと切れていた筈の頭に、今朝と同じ警鐘が再び鳴り響く。 離れろ、その女は危険だ―違う、落ち着けあれは夢だった。 そっとの手が静雄に伸ばされる。情けなくもびくりと身体が揺れた、足は硬直したのかまったく動かない。 離れろ、離れろ、離れろ、その女は危険だ―





「こわいかお、してます」
「......っ、」
「何かあったなら言って下さい」


伸ばされた手に刃など握られてはいなかった。むに、と小さな身体で精一杯背伸びをして静雄の両頬をつねったの瞳が 妖しく光ることもない。当たり前だ。 自分を見つけると名前を呼んで、嬉しそうに駆け寄ってきて、化け物染みた自分に臆することなく 笑ってくれる―それだけで、十分だろ。不安そうに静雄を見上げるの頭をぽんぽんと撫でてやる。不思議と 笑みさえ零れてくるほどに、すっきりした。


「お前がそのままでいてくれりゃ、それでいい」
「...誤魔化しましたね、いま」
「誤魔化してねえって。ありがとな、」


それ以上を求めてはいけない。あの夢はきっとそういう警告だった。 愛してはいけない、愛されてはいけない。いつか壊れてしまう関係ならもう少しだけ、このまま。





「それよりお前、臨也の野郎に会わなかったか」
「臨也、さん?」
「こう...見ただけで腸が煮えくり返りそうになるノミ蟲みてェな、」
「えっと...見てないと思います、けど(あのひと奈倉って名乗ってたし)」