粟楠は都内の私立女子高に通う、粟楠会会長・道元の孫娘である。
肩書きは粟楠茜の従姉に当たるが血縁関係はなく、元々は取引先の令嬢であったを幼い頃に
粟楠会が養子として引き取った。
という些か訳有りな立場のため、彼女の存在を知る者は内部でもごくわずかだ。
幹部である四木ですら最近の彼女の動向は掴めていなかった、のだが。
「えっと、あの……おかえり、なさい」 自宅マンションのオートロックを解除し、一拍を置いて四木は苦虫を噛み潰したような顔をする。 「俺の孫娘をお前に預ける」 四木が道元から問答無用でその通告を受けたのは、遡ること数時間前の話。 孫娘、という単語を聞いた時点で四木が思い浮かべたのは既にひとりしかいなかった。 わざわざ幹彌の溺愛する茜を自分に預けるなんて事態になる筈もないだろう、と。 しかし―何故、今更その名前が話題に昇る?表向きには存在を抹消されたも同然の少女だ。 当然のように抱いた疑問を欠片も表情に出すことなく、至って冷静なままに四木は言葉を続ける。 「預ける、というのは」 「そのままの意味だ。アイツもお前にゃ懐いてただろ」 「…ずっと幼い頃の話、ですがね」 まだ四木が粟楠会の若衆であった頃。初めて上役から与えられた役目がの世話だった。 突然見知らぬ人々に囲まれる生活を強いられた少女が、一番身近な人間に懐くのは当然のこと。 だがが小学校高学年に上がると同時に四木は任を解かれ、最近は姿を見ることすらなくなった。 古巣である取引先は今や押すに押されぬ大企業へと発展、それ以降の彼女の心中は定かではない。 「内も外も物騒でよ。身辺警護も兼ねて世話してくれや」 了解しました、と四木は言った。では住居の手配を、と続けて言った。 その必要はねえ、と道元は笑った。 そして話は冒頭へと戻る。 「…出迎えは必要ありません、と言った筈でしたが」 溜め息と共に玄関の扉を閉めた四木は、所在無さげに立ち竦むこの小さな来訪者を扱い兼ねていた。 預ける、というのはまだ分かる。歴の浅い若衆に警護を任すよりは、幹部の側に置く方が安全だということも。 それが他に存在を秘匿された、訳有りお嬢様なら尚更だ。だが、…果たして寝食まで共にする必要があるのか。 幸いと言うべきか、四木の部屋は一人で暮らすには些か持て余す程に広かった。愛人を連れ込むような趣味もないし、同居人の 一人や二人が増えたところで何ら支障はない。 それでもこの厳めしいマンションの階をひとつ買い取って、部屋を与えてしまえば警護に事足りるではないか。 そう、思わずにはいられなかった。 「っ、すみません」 四木の不服そうな、苛立ち混じりの声色を感じ取った彼女は、びくりと肩を震わせて謝罪する。 彼女も彼女で何故自分が此処に居るのか分かっていないのだ。 親しいとは言い難い男の部屋に突然連れて来られ、一緒に住めと言われて混乱しない筈がない。 この奇妙な同居生活がいつまで続くのか四木にも皆目見当がつかないが、然程長くは 続かないだろうというのが彼の見解だ。どうしたって先に限界が来る。ならば、殊更慣れ合う必要もない。 「あ、あの、」 「…なにか?」 「勝手かな、と思ったんですけど…ご飯、作りました。四木さん、御夕飯まだみたいだったので」 道元に孫娘を託されてから僅か数時間。たったそれだけの時間で彼女が住むに当たっての 必要最低限を取り揃え、足りない家具を新調し、以前住んでいた家から荷物を運び出す作業を 難なくやってのけた。「何もしなくていい」と念を押されたものの、ただ傍らで 見ているだけというのはにとって心苦しかったのだろう。 それくらいの事情は四木にも察することができた、のだが。 普段寄り付かない食卓の上に並べられた食事を一瞥して、四木は容赦なく言い放つ。 「…結構ですよ」 「……え?」 「余計な気を回して頂かなくて結構、と言ったんです。…さあもう部屋に戻りなさい。 用事がない限りなるべく出歩かないように。明日の朝は私の部下が学校までお送りしますので」 「でも、」 「貴女の身に何かあると預かっている私が困るんですよ。…お分かり頂けますね?」 「……はい。ごめん、なさい」 ぺこりと深く頭を下げ、与えられた自分の部屋に戻って行く華奢な後ろ姿。俯いたままの眦はきっと、触れた途端 決壊してしまいそうな程の雫を湛えているだろう。それを拭う術を四木は知らない。 記憶の中の幼い後ろ姿とは似ても似つかない、女らしく成長したその姿に、四木はどうしたらいいのか 分からなくなる。…ならば必要以上に近付かないことだ。 それがにとっての、自分にとっての最善だと、彼はこの数時間の間に判断した。 「――四木さん、」 「なんでしょう?」 「…おやすみなさい」 だけどもし、…もしもこの微妙な距離が少しでも縮まるようなことがあるとすれば。 その時は粟楠会で自ら築き上げてきたものすべてを賭けることになるだろうと、四木は無意識の内に自覚していた。 |