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02

幼い頃の記憶はほとんどないが、生まれた時の苗字と現在の苗字が違うことは知っている。 両親と呼べる人々の代わりに一人だけ義祖父が居たが、はこの老獪な人物があまり好きではなかった。 「粟楠」の名が持つ意味は理解していたし、彼はそこの最高責任者だ。幼い少女ひとりの人生を 歪めることくらい、造作もなかったに違いない。


(スモークフィルムのせいなのかな、)


高級車の暗い窓越しに見える空は、いつもと少し違っていた。








「…変質者?」


まるで塵芥に向けるような眼差しで胡乱げに睨めつけてくる四木を、爬虫類を彷彿とさせる鋭い目をした その男―風本は軽くいなすように事務所のソファに腰掛けた。 まだ若いが粟楠会の幹部に名を連ねるこの男もまた、粟楠の存在を知る数少ない人間のひとりである。


「そんなに眉間に皺寄せてたら刻まれちまいます」
「御託は不要ですよ、風本さん」
「まあ、早い話がストーカーですね」


引き払ってきた彼女の家を調べたところ、部屋の至る所から盗撮用のカメラと盗聴器が出てきたという。 成程穏やかな話ではない。「粟楠の孫娘に手ェ出すたあ命知らずもいいとこですよ」―事も無げに風本は言ったが、 四木は深く眉間に皺を刻み込んで思案した。 血の繋がりはないとはいえ、ヤクザの関係者を付け狙うなど命が惜しければ回避すべき行為だ。 或いはの素性を知らずに行為に及んでいる可能性もあるが、それほど単純な案件ではない。 長年培ってきた四木の直感がそう告げていた。


「…他に何か情報は?」
「いいえ、何も。まあ早いとこ握り潰した方が賢明でしょうね。あまり好き勝手されると、ウチの面子にも関わる」


まあ、精々頑張って下さいよ。四木さん?

それだけ言い残すと風本は四木の事務所を後にした。置き土産のように机の上に乗せられた例のカメラと盗聴器を 睨みつけながら四木は盛大に舌打ちしたい気分に駆られた。これが茜に関わる案件ならば 組総出で相手を社会的に抹消するところだが、悲しきかな、同じ「孫娘」の肩書きとは言えの立場は 茜のそれよりずっと下だ。率先して動きたがる幹部は少ない。今更になって四木の元へ御鉢が回って来たのがその答えだろう。


「そういうのは最初に言えってんだ。…ったく、」


ガキが、無理しやがって。








「お迎えに上がりました」


そう言って終業後に現れたのは、いつもの強面の部下たちではなく、四木さんだった。

物心がついた時からの周囲には常に何人もの世話係が侍っていたが、とりわけ彼には懐いていた記憶がある。 幼稚園の送り迎えは毎日四木さんがしてくれていたし、白いスーツをぴしっと着こなして門の前に現れる四木さんは 子供ながらにとても恰好良く見えて、は彼に手を引かれるのが好きだった。 「、おおきくなったら四木さんのおよめさんになる!」―なんて、自分にも無垢な頃があったものだと苦笑する。


「…どうかなさいましたか?」
「え、」
「いえ、先程から外ばかり眺めていらっしゃるので」


前を向けばステアリングを握る四木を視界の端で捉えてしまうので、の視線は窓の外に向けられたままだ。 スモークフィルム越しの空は、酷く味気ない。ぽつり、ぽつり、と。空から降る雨粒がフロントガラスを穿つ。 瞬く間に路面を濡らした雨は車のヘッドライトを反射していたが、一定のリズムで ワイパーが視界を往復するようになっただけで、四木の運転は少しも精彩を欠かない。 そんな彼に魅せられたのか―ふとが窺うような視線を隣に寄越すと、赤信号のために運転から 解放された四木の瞳にぶつかった。反射的に視線を逸らそうとするが、切れ長の鋭い目は の瞳を捉えて離さない。


「ようやく目が合いましたね」
「四木さ、ん」
「…私が、怖いですか?」


ふるふると首を横に振る。四木が怖いわけではない。ただこれ以上の迷惑をかけて彼に疎まれるのはとても、怖い。 辿々しい言葉でがそれを告げると「…そんなことを、」と半ば呆れかえったような声が返ってくる。


「貴女を護るのが私の役目です。迷惑だなんて、思わなくていい」


そう言って頭を撫でられた―気がした。信号が青に変わると、何事もなかったかのように サイドブレーキを引いた四木が滑らかな動きで車を走らせる。 どう解釈すればいいか分からなくて、何を言ったらいいか分からなくて、車内には再び沈黙の帳が下りる。 そういえばどうして今日、わざわざ迎えに来てくれたのかを聞きそびれてしまった。 四木さん手ずから運転することなど滅多に無いだろうに。そしてどうして今日―そんなに優しくしてくれるのかということも。